2008年05月07日
弥生・古墳時代の歴史
堀立柱建物ってこんなに歴史深いんですね。
縄文時代
三内丸山遺跡の六本柱建物(復元)歴史的には縄文時代前期に出現し、青森県青森市の三内丸山遺跡や秋田県大館市の池内遺跡など拠点集落の中心的な建物に用いた。ことに三内丸山遺跡の巨大な木柱による六本柱の建物は有名である。径1mのクリ材もさることながら、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て一致することも重要である。特に「4.2m間隔」の柱穴は他の縄文遺跡でも確認されており「縄文尺」とでもいうべき共通の尺度が広汎に使用されていたのではないかと考えられるまでになった。この六本柱の建物は祭壇や見張り台のような施設ではなかったかと推定されている。
中期中葉の環状集落遺跡である岩手県紫波町西田遺跡では、広場を中心に、内側から土坑墓→掘立柱建物→竪穴住居→貯蔵穴の順に同心円状に遺構が配置される。そこでの掘立柱建物は殯(もがり)用の建物(再葬施設)ではないかとする考えがある。いずれにせよ、墓地が円環の中心を占めることから、墓に葬られた人々を祖先とする世界観のもとで日常生活が営まれたことを示唆している。西田遺跡では平面亀甲形の建物跡が検出されているが、同様の例は秋田県鹿角市の大湯環状列石および高屋館遺跡(ともに後期)からも見つかっている。
家形埴輪。堅魚木を乗せた入母屋造である。拠点集落の中心的な建物に用いる点では縄文時代と同様である。一般集落の住居としての主流は依然竪穴住居であり、これは古代末の11世紀まで続く。
弥生時代は、魏志倭人伝の記録を待つまでもなく、堀(防御施設)でムラ全体を囲む環濠集落や当時の一種の山城である高地性集落などの遺構、あるいは遺物など考古資料の面でも戦争の多い時代だったことが知られる。稲作農耕の本格的な進展は水利権や余剰農産物をめぐる争いを招いたものと思われるが、そうした時代状況を反映して、この時期の掘立柱建物には軍事的性格を帯びる建物や倉庫的使用のなされた建物(高床式倉庫など)が増加したものとみられる。著名なものとしては、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡出土の土器に描かれた多層式の楼閣がある。これは偶然絵に描かれていたからこそ、同様の建物が存在しただろうという推定が可能となるが、通常は発掘調査における遺構の検出からは上屋構造までは推定できない。佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡の掘立柱建物跡もその立地などから考慮して物見櫓であることが確実視され、今日では遺跡公園内に復元されている。
古墳時代に入ると、クニとしてのまとまりと豪族相互の序列ができあがってきて、戦争は激減し、集落における軍事的要素は薄まるが、一方で建物が豪族の威容を示すものとして積極的に利用されたことはむしろ増加したと考えられる。いわゆる豪族居館とよばれる遺構がそれであり、群馬県高崎市の三ッ寺?遺跡・北谷遺跡の調査例などが知られる。ここでは居住空間(私的空間)と祭祀の場もしくは首長による政治の場(公的空間)とがきちんと区画されていたことが確認されており、また、3km離れた両遺跡が規模・形状ともにまるで同じ設計図をもとに構築されたかのように酷似していることは特に注目に値する。なお、埼玉古墳群(埼玉県行田市)などから発見された家形埴輪には堅魚木(かつおぎ)を乗せた入母屋造の家、寄棟造の家、円柱表現の高床倉庫などがあり、上屋構造を推定するうえで大きな手がかりとなっている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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